僕は、読書をそこで中断するのだった。理由は二つ。一つは、隣の姉さんの顔色が露骨に悪かったこと、二つは――真正面に座っているおっさんが先程から好奇心に満ち満ちた目を情け容赦なくこっちに向けてきていること。まあ、『おっさん』が好奇心を抱く理由は分からないでもないけれど。多分、それは大変な誤解である。
「気分悪いのかい?」
出立の直前に港の本屋で購入した、『アッティカの戦い』と表紙に刻まれている文庫本を自分の背嚢(はいのう)に押し込み、半ば演技的に僕はそう言った。なかなかどうして、今の自分の状況と微妙に――しかし、何も『アテナイ』という地名が重ならなくても良いのにとは思わないでもない――重なるものがあって読み進めたい衝動の根はそれは深かったのだが。
「ごめん――酔ったってわけじゃないんだけど、ラスティ――」
口元をそれでもハンカチで抑えながら、ステラ姉さんはそう言った。けれど、息も絶え絶えなそんな様子は誰が見たって通常じゃあないのだろう。元々、血色の良い女性でもないのだ、ステラ・ハーヴェイは。
「坊や、外気(がいき)に当てさせてやった方が良いんじゃねえか」
先程から、僕らに対して明け透けな好奇心を露わとしていた『おっさん』が真剣味を二割り増しの表情で言ってきた。
「そうすね――ホラ、外に行こうか」
そんな『おっさん』に会釈を戻しながら、けれど俺はこんな柔(やわ)な姉さんに対する苛立ちが精神の淵から漏れ掛かるのを完全には否定できないでいる。産まれてからずっと――こんな頼り無い姉貴の面倒を見てきている気もするが、ほとんど慣習となっていることもあり、特筆するほどの苛立ちとは呼べないのかも分からないが。
「ごめん」
そんな謝罪を向けながらも、自分で立ち上がる気はないらしい。苛立ちをいよいよ、軽く覚えながら僕は姉貴の上半身を持ち上げる。
「坊や、そうだ! こういう時こそ、『男』を見せろ!」
その『おっさん』は年季を十二分に感じさせる笑顔を浮かべながら冷やかしてくる。他の人にも冷やかされるかな、と人知れず僕は怯んだのだが――生憎と、『おっさん』以外は皆、船外の一点を揃って凝視しているという状態だった。再度、付け加えると『おっさん』は致命的な誤解をしているんだが――まあ、それはもはやどうでもいいや。
「さっきの放送でも言っていただろ――そろそろ『アテナイ島』が見えてくるはずだよ」
デッキの外へとほとんど姉貴を引きずる形で到達した僕は、未だに蒼い顔をしている姉貴に言ったものだ。
「予科練に着く前にこの有様じゃ――駄目ね、私――」
デッキに備えられた簡素な手摺りに、その上半身を投げ出しながらステラ姉さんは呟いた。
「ま――宇宙艦艇は『船酔い』とは無縁……らしい。大丈夫だよ」
僕としては、そんな慰めしかできない。『宇宙酔いとか低重力障害とかは有り得るけどね』と言う言葉をどうにか、呑み込んだのはここだけの話だ。更に厳しいことを付け加えるのだとしたら今、僕達が乗っているのは『ホバークラフト』であって、それも僕主観で言うと極めて『快適』な乗り心地ではあり――この程度で音を上げる姉さんもどうだろう、とか思わないでもない。
「どうだ姉ちゃん、具合は?」
そう口にして乱入してきたのはさっきのおっさんだ。
「ご心配をお掛けして申し訳ありません――」
弱々しげに、それでも姉さんはおっさんに頭を下げた。
「いや、なあに――キャビンでゲロられてもこっちが迷惑するからな、わは、わはははは――」
おっさんは、ドスの効いた笑い声を途中で止めたのだが、これは僕が些か厳しい視線を投げ付けてしまったことに依るのだろう。
「――おっとっと、すまないな坊や――からかうつもりは無かったんだがね」
そんなおっさんの言葉を受けることで、自分自身の眼光の鋭さを間接的に知ることが出来た僕は少しだけ、反省する。
「いや、こちらこそ」
言葉がそれでも素っ気ないのは致し方ないところだろう。おっさんはその顎髭――って言うほど立派なものではなくて、無精髭としか思えない――を右手で弄びながら、苦笑半分と言った表情を構成していた。
「まあ、悪かったよ――俺はどうにも口が悪くっていけねえ」
そう言って、おっさんはその懐からチューイング・ガムを取り出した。
「二人で分けると良い。キッツいミントだからな――嬢ちゃんも楽になるだろうさ」
いかにも和解を試みている、その表情に免じて、僕は一礼してガムを受け取ることとした。
「ありがとうございます」
直接のお礼を提供したのは姉さん、ステラ。
「いやいや、詫びみたいなもんだ――気にしないでくれよ」
今一度豪快な笑い声を立て、おっさんは自らもガムを三枚まとめて口にした。
「ところで坊や達――幾つだ?」
やはり明け透けな眼差しで僕の爪先から頭の先までを眺めて、おっさん。
「坊や、って言い方は止めてください――ラスティ・ハーヴェイという名前がありますから」
「ああ、すまんかったよ。で、そんなミスタ・ハーヴェイはお幾つなのかね?」
「18になりました」
おっさんはその広い背中を大きく、竦めるのだった。
「18で志願したのかい――そっちの嬢ちゃんは?」
「ステラ・ハーヴェイです。やっぱり、18歳です」
おっさん、ここでその太い首を傾ける。
「……ってことは何だ、坊や達――もとい、ミスタ・ミズは」
「「双生児なんです、僕(私)達は」」
実生活においても良くあることなのだが――ここで、ステラ姉さんと僕の言葉が完全に重なってしまった。
おっさんは、そこまで培ってきた紳士的な態度をあっさりと放棄して、体を前後左右に揺らして爆笑し続けるのだった。
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「すまんね、口が悪い上に俺は笑い上戸でな――わはは」
皺の刻まれた目尻を拭いながらおっさん。
「遅れたが、俺の名前はデビッド・ランソム。元、船乗りだ」
分厚い胸板を自らの親指で示しながら得意気にミスタ・ランソムは言うのだった。
「で、何だ――姉弟揃って……学生だったのか?」
関心、或いは好奇心が別分野へと向いたのか、ミスタは話題を強引に転換してきた。
「ええ――大学の【ROTC(Reserve Officer's Training Corps=予備士官訓練専攻)】――ってトコロですけど」
ミスタ・ランソムはさながら巨木の様な腕を組んで一つ、呻く。
「ああ、先日ニュースでちらりと耳にしたが――なるほどな」
「結局、大学には一ヶ月も通っていないんですけどね」
ランソムのおっさんから頂いたガムを口に放り込みながら、僕は手摺りに大きく寄り掛かった。
「しかし見上げたモノだなあ――志願とは」
意味もなく頷きを加えながら、おっさんは感嘆の声を上げてくる。
「両親には猛反対されましたけどね」
全く飾らない事実だった、それは。残念ながら。
「だろうなあ――俺っちだって娘が志願する、なんつったら困るしなあ」
ほとんど、山賊の『お頭』のようなミスタ・ランソムに娘の存在がある、と言うのは控え目に言っても大変な驚きだ。
「まあ、まだ小学生だからな。心配には及ばないが――がっはっは」
すっかりと脂(やに)下がったおっさんだったが、どこか陰が含まれているように思える。
「お嬢さんが大きくなる前に、平和な時代が来るといいですね」
これは手摺りに上半身を預けたまま、幾分血色の良くなった姉さんによる発言だった。
「だなあ――だからこそ、こんな俺も年甲斐なく志願させてもらったってぇわけだな」
どこか、しんみりとした雰囲気になってしまった。先程まで、ささやかな敵愾心を僕はこのおっさんに対して持っていたのだけれど、それはすっかりと雲散霧消してしまっていた。
そう。
僕、ラスティ・ハーヴェイと、姉のステラ・ハーベェイ。そして、ミスタ・ランソム――そして、このホバーに乗り込んでいる多くの人達――はこれより半年後の設立が予定されている、『エテルナ自衛隊』へ志願する為に、ここにいる。
官給品の上下軍服――正確には『隊服』と呼ぶべきだ、とは一部の平和論者が声高に叫ぶところではあったが――には既に『士官候補生』を示すマーキングが施されている。カーキ色が基調となっているそんな上下は確かに、大昔の戦争映画で見られるような典型的な『軍服』であった。
「もう少し、デザインが洗練されていたらなあ――」
等と、宅配で届けられた際にステラはぼやいたものだったけれど。
「偉くなれば、幕僚長みたいな白軍服を着られるようになるさ」
そんなクラシックなデザインに等しく溜息を吐きながら、僕はそんなことを姉さんに言ったのだ。
クリストファ・アレン。それが、幕僚長の名前だ。って、これからは『幕僚長閣下』、と呼ぶべきなんだろうけど。まあ、雲の上の人ではあるから関係ないのだろう。面と向かって相対する事態があるとも、思えない。
僕は候補生、彼は幕僚長。
……いずれにせよ、僕はこうしてここにいる。
これから一ヶ月の地上訓練、講習を経て、いよいよイザヨイ上空に据えられた『フォーチュン』での航宙訓練を、僕達は受けることになる。
何もかもが、これからだった。
差し当たって僕は、おっさんや姉さんと共に、静かに近付いてくる『アテナイ島』の輪郭をただ、その目で捉え続けていた。
その先のことを――僕はまだ、何も知らなかった。

